天台宗光圓寺には400年以上の歴史 があります。伊達政宗の命により、祈祷の事を司り、城下の鬼門鎮護の祈祷所として寺場を拝領しました。仙臺本丸築造に当たり、地祭を修法しました。そして、明治時代まで山形の湯殿山代参四番山を勤めていました。
ご本尊は政宗の母最上氏保春院の護持佛であった不動尊像・二童子像 です。これは智勝大師作と伝えられています。外剛にして内慈悲を具え英名を萬世に留め、世人皆尊像を敬い、出世不動明王(尊)と称し信仰を深めました。
平成12年5月 、住職と して普山、同年7月、僧職と同時に身体障害者への福祉活動を自らの道としておられましたが、平成20年2月、青葉区にある清浄光院(万日堂)を兼務住職として就任なさったこともあり、同年3月、およそ30年奉職した社会福祉法人共生福祉会を退職し僧職を専業となさっています。
現在は学校法人秀志学園理事やNPO法人ライジェの副理事長も務められ、また平成21年7月に法務大臣より委嘱され、人権擁護委員として地域社会への奉仕をしておられるご住職です。
永昌寺は政宗公 伊達藩開府以前の古寺と伝えられています。古来より「1日1歩の永昌寺」と讃えられていたとのことです。
政宗公は元和8年(1622年)、最上家が幕府に領地を没収されたため、実家である山形に帰っていた母義姫を仙台に呼び、妻愛姫と共に手厚く孝養を尽くしましたが、翌元和 9年、義姫は76才で亡くなりました。
義姫の戒名は「保春院殿華窓久栄尼大姉」 。遺骸は北山覚範寺にて火葬され埋葬されました。その後、現在の永昌寺の墓地中央部に於いて保春院殿の葬礼が行なわれ、灰塚が祀られました。
保春院殿の葬礼場である灰塚を祀るため、現在地に移転し、 寛永15年(1638年)、北四番丁から新坂町の現在地に移り、保春院殿のお位牌を祀って現在に至っています。現在地の永昌寺の御開山は北山輪王寺十三世・角外麟恕(かくがいりんにょ)大和尚となっています。
壽徳寺は、伊達政宗の父輝宗が、桃山時代の天正十三年(1585)倒れたとき、その時の住職昌室慧繁和尚が仏事をつとめ政宗の信望を得て政宗が岩出山に移るとこれに従い桃山時代末期の慶長六年(1601)政宗開府に当たり、仙台に地を賜わり移しました。
この時、輝宗を開基とし、松音寺第八世喜州詮應和尚を勧請して開山したことから、昌室和尚は二世となった。松音寺(若林新寺四丁目)末寺となりました。
壽徳寺の庭園は、江戸時代中期、壽徳寺第五世中興別山禅可和尚享保五年(1720没)が建物の再建復興当時に作庭されたと伝えられています。
現在の庭園は、書院の東南に位置し、池泉を中心とする観賞式庭園です。特に庭園東隅には景致的石組とした滝石組、流水石組には作庭当時の姿が偲ばれ、池には軽快な反りを持つ切石橋を架け、立石、燈籠を配し、サツキ類を小刈込で景をとる手法をとるなど洗練された構成を有し、 庭園周囲はアカマツ、コウヤマキ、ケヤキ、シラカシ、カエデ等高木を背景とした自然的環境が保たれ均整のとれた庭景をなす古庭園であり宮城県の文化財となっています。
また、寺の山門は薬医門(本柱の後方に控柱を建て、切妻屋根をかけた門)の形成で、大きい円形の門が珍しく別名円門(まるもん)と呼ばれ仙台市登録文化財となっています。
創設は建長2年にして、開基は浄土真宗の宗祖親鸞聖人の高弟24輩11番 無為信御坊です。
無為信御坊は敏達天皇4世の苗孫、左大臣橘諸兄公の後裔にして、その俗称を橘民部少輔栄住といい紀州田辺の城主であったが、時あたかも源平戦乱の真最中にして、打ち続く戦乱の惨禍に心嘆き地位も名誉も捨てて出家発心の身となられた。
始め会津に留錫したと云われ、伊達政宗が会津を征服し、仙台に築城の時に招かれて仙台北山に六千坪の地を賜ったものです。
山門と本堂に北山の額があるが、青葉城の真北にあたっているためといわれている。
また、称念寺の山門は赤く塗られており、通称「赤門寺」の名で知られている。
龍角寺は仙台北八番丁 (現在の青葉区柏木)の江巌寺二世・旦庵光朔和尚によって、寛永8年(1631年)に、宮城郡上愛子村字大針に開山された曹洞宗の寺院です。その後の市町村合併により、現在の住所は、仙台市青葉区上愛子字大針になりました。(写真は現在の住職、赤間直道和尚)
ちなみに、龍角寺の本寺である江巌寺は、藩祖伊達政宗公が、その第8子竹松丸(7歳)の菩提のために仙台北山輪王寺の末寺として創建したお寺です。
この江巌寺の二世・旦庵和尚が当時上愛子地方に巡錫(じゅんしゃく)し、地方民の教化に勤められました。その結果、地方の老若男女は篤くこれに帰依し、旦庵和尚 に対して、「この地に留まって教を布かれること」を願い出たところ、旦庵和尚はその意を汲み、遂にこの地に留まって龍角寺を開山することになったと伝えられています。
文治年間(1186年)伊達家の初代朝宗公(ともむねこう)が、伊達家の祈願寺(きがんじ)として開かれたお寺です。龍寶寺は、常陸の国より 福島県 梁川、山形県 米沢、宮城県 岩出山、伊達家と共に移動し、慶長3年(1598年)頃、初代仙台藩主伊達政宗公(まさむねこう)の仙台築城に伴って現在の地に移されました。
藩政時代は城下最大の門前町を与えられ、龍寶寺に属していた寺院は約70ヶ寺という大寺院でありました。
境内地には、国指定重要文化財の釈迦如来立像や伊達朝宗公(ともむね)が、龍寳寺を祈願寺としてから800年記念として建立(こんりゅう)されました、多宝塔等も建立されております。
松音寺は、寛正年間(1460~1466)11世持宗によって、福島県伊達郡国見町松ヶ蔵に建立されたと伝わっています。
十二世成宗が長享元年(1487)逝去し、松音寺の地に葬られ、十三世尚宗は松音寺の開基を父とし、 松音寺をその菩提寺と決め、その後、松音寺は政宗の仙台開府に従い慶長七年(1602)仙台に移り、現在の蓮坊小学校近隣四町歩(約四万平米)の地域を賜り堂塔伽藍を建立しました。
元和四年(1618)政宗の第五男宗綱(享年十六歳)卒するや、同寺に葬り、宗綱を以って中興開基となし七堂伽藍と三十六の末寺を有する大寺として隆盛をきわめました。
明治二十一年、現在の地に移転し庫裡・書院・開山堂・経蔵等を新築して寺門の面目を一新しました。
山門は、政宗公が晩年を過ごした若林城の大手門を寛永年間に拝領したものを明治二十三年、現在の地に移建したものです。
四月中旬に見事な桜が満開になり「お花見スポット」としても仙台では有名です。時季になりますと桜を楽しむ方、カメラを片手にやってくる方、と連日賑わいます。
東秀院の本寺 は蔵王町円田にある「保昌寺」です。その開山者である牛見永喜和尚の本寺が山形県米沢市梓山の「松林寺」でした。いずれも曹洞宗通幻の流れを汲む寺院です。
米沢の松林寺は、当時その地方を支配していた伊達政宗公の時代に開かれた末寺です。伊達政宗公が勢力を拡大するにつれて家臣も増え、牌寺を建立した家臣も少なく ありませんでした。そして、伊達政宗公が仙台を拝領し、青葉城築城に伴い、同時に現在の新寺地域に移った寺院が多数ありました。
「保昌寺」は高野氏に従って平沢に、東秀院は「保昌寺」八世・喜山誾悦大和尚が開山しましたが、誾洞大和尚の勧誘開山と思われます。
境内には世界平和の悲願を託した仏舎利塔(パゴダ)があります。平成 4年、ミャンマー国から釈迦の仏舎利(鎖骨の一部)が贈られました。
ミャンマー仏教会への協力に対する返礼ということで、ミャンマーのパゴダ内に安置されていたものの一部をミャンマー仏教会の大僧正が、アジア仏教徒協会を通じて東秀院に贈ったものです。仏舎利は高さ約 5cmの水晶玉に安置され厨子に納めて奉されており、世界平和を願うための仏舎利塔が建立されました。
山号を「稲荷山(とうかさん)」と称し、仙台藩祖伊達政宗公の養育係として名高い片倉喜多子の供養のために1586年、政宗公の母君 義姫(伊達家第16代輝宗公夫人)が山形の米沢近郊に寺を建立し、ご開山として会津の善徳院(曹洞宗)住職の名僧霊堂文徹大和尚を招聘した。
深く仏門に帰依していた喜多子は1610年7月5日、現白石市郊外にある「滝の観音堂」にて71歳の天寿を全うした。
政宗公は喜多子の忠誠に報いるため仙台開府にあたり喜多子を開基として妙心院を創建し、位牌を妙心院に安置してその御霊を弔ったといわれている。
新寺の本院境内には鎮守さまとして「稲荷堂」があり信仰をあつめている。
また、俳人松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中、友人宅に忘れていった蓑が埋められた「蓑塚」があり多くの人が訪れる寺になっている。
もとは龍川院と称し、川内の大橋北阿元にあり、白河の関川寺、平泉の中尊寺と相対峙する天台宗の大寺であった。藤原秀衡の創建で、玄光坊、大満坊などの坊を擁し、五智如来と千躰仏を併祀していた。因に仙台市の仙台は、この千躰仏の千体に由来するといわれている(封内風土記)。
永正十三年(1516)頃荒廃していたのを、宗禅寺五世融室梵祝大和尚により、中興開山され、曹洞宗龍川院となった。仙台城築城の際現在地に移され、このとき、玄光坊は玄光庵、大満坊は大満寺として独立し、本院の末寺となった。末寺はこの外に、国分尼寺、清涼寺、慈雲寺、法性院、興源寺の五寺がある。門前の六地蔵は明治の初頭まで、北目町通りの六道の辻に立っていたものを、鉄道開通に伴い、本院に移ってきたものである。なお、龍川院を龍泉院と改称したのは、本院三十一世俊哲文明和尚のときということである。
西門には六地蔵があり、本堂前には布袋尊像があります。また、五大虚空蔵菩薩と千躰仏をお祀りした六角堂があります。
開山は松音寺7世霊堂文徹大和尚です。大和尚は錦織家の出身で松音寺6世松庵賢貞大和尚の法を嗣ぎ、妙心院(新寺)や安養寺(愛子)をも開かれました。また、開基(創建した方)は錦織家19代休庵瑞栓(久庵)です。
錦織家は代々、伊達藩の御殿医を勤め、休庵は錦織家出身の霊堂文徹大和尚に帰依するところ篤く、林松院を創建し菩提寺にしました。
林松院は現在31代目の住職になります。歴代住職の中には、永巌寺(石巻)や輪王寺(北山)あるいは昌伝庵(荒町)に晋住された方も居られます。
新寺通りに15尺(約5m)の白衣観音像を有し、界隈では「白衣観音寺」と言われています。
「山の寺洞雲寺」は日本三山寺の1つで、奈良時代慶雲元年(704年)蓮葉山円通寺(れんようざんえんつうじ)として 釈定慧(しゃくじょうえ)によって開山されたと伝えられます。
昭和37年に宮城県指定文化財(工芸品)に指定された再建時の銅鐘があります。
銘文を有す梵鐘(ぼんしょう:寺院のつりがね)では県内最古のものと言われ、永世15年(1518年)に作られたものです。
途中、岩肌にポッカリ空いた洞穴が、梅國(ばいこく)禅師が座禅をしたといわれる「座禅窟」です。
また、太鼓橋や岩谷観音堂、ご本堂内には「登り龍」と「下り龍」と見所が多々あります
「山の寺さん」と呼び親しまれている洞雲寺の敷地は広大な面積を誇り、旧4号線の喧騒から解き放たれ、大自然に包まれています。
春には満開の桜、初夏には鮮やかな新緑、秋には見事な紅葉、冬には水墨画のような景色が我々の眼を楽しませてくれます。
初め月窓という僧侶が開山しましたが、間もなく火災に遭い、後に山の寺洞雲寺十四世祥珉和尚により再興されたと言われています。
月窓・月叟という名の僧 の記録は他方面に多数残されていますが、どんな僧であったかは不明な点が少なくありません。
月窓と称した僧には、須賀川長禄寺を開山した月窓明潭と、出羽高玉瑞竜院三世で相馬原町に新祥寺を開山した月窓正印が知られていますが、林泉寺と関わりがあるとすれば、田尻東渓寺の開山・月叟正成ではないかと考えられています。
境内には、戦没者忠霊塔と梵鐘があります。日清日露戦争から大東亜戦争までの時代に、林泉寺の壇信徒にして護国の華と散った無念さを慰め、また尊い犠牲によって今日の平和と繁栄をみるに至ったことにことへの感謝を表 すために建立されました。お参りに来た方々が鐘を鳴らす姿がたいへん印象的です。
また、「伽藍DEコンサート」と称して、1年に1度、地域で活躍している演奏家を招き、ご本堂で演奏会を行っています。お檀家さんばかりでなく、どなたでも参加出来ます。
演奏会終了後は美味しいコーヒーをご馳走になるなど、楽しみが盛りだくさんの催し物です。
七北田川と富谷丘陵突端の接点に位置し、平安時代に慈覚大師が開いたという伝承が残る東光寺は、鎌倉時代に国府の留守所長官で ある留守氏ゆかりの寺であり、南北朝時代にかけての石窟仏(せっくつぶつ:崖を掘り込んで仏像を刻んだもの)や 板碑(いたび:供養のための板状の石)122基が良好に残っています。
岩切地区は東北地方でも有数の中世の遺跡が密集しているところです。岩切地区の西端に位置する東光寺遺跡は 墓所、霊場であり、その背後の岩切城跡は南北朝時代から戦国時代にかけての大規模な山城です。
屋敷などの居住地区は七北田川の南岸の今市・鴻ノ巣遺跡、北岸の館跡である洞の口(どうのくち)遺跡、 さらに多賀城西部の新田遺跡まで広がっており、当時の町場や市場を含むと考えられています。 (参照:仙台市文化財パンフレット第53集)
皆様も歴史を探索してみては如何ですか?今まで見過ごしていた身近な場所が悠久の歴史のロマンを運んでくれることでしょう。
天正12年(1574)6月、相模国足柄下郡早川村(現、神奈川県小田原市)の「海蔵寺」三世、大州梵守大和尚により開山。
また、境内の東にある鎌倉時代、元亨2年(1322)の板碑にその寺名が刻まれていることから、前身は天台宗の神林寺であったと推察されています。
宮城県屈指の温泉郷である秋保温泉に近く、お墓参りがてら温泉旅行というのは如何でしょうか。お参りをして温泉に浸かれば、心身ともに癒されることと思います。そんなこともあってか、最近では関東からのお問い合わせが増えているということです。
また、境内地にあります三十三観音堂は霊験あらたかという評判で、選挙での必勝祈願や子宝祈願に訪れる方が後を絶たないということです。祈願成就の暁にはお礼参りをされれば更にご利益があることでしょう。